『Nocotta』

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【二十.夢のあと】

その夜。

明りの消えた塩撒寺の稽古場に、一人鈴木は立っていた。マゲヅラをかぶって。

一代年寄は、相撲協会に返上してきた。だからもう、親方と呼ばれることはない。女子力士達も、みんなプロ力士を続けるつもりはないようだ。

「もう、このマゲヅラをかぶることもないのかな…」

農作業恋だけは、相撲協会幹部に「是非とも天下を取らないか!報酬はずむから!」と強く慰留されたが、固く断ったそうだ。曰く、「相撲取っても男の子にモテる気がしないから。」

これで鈴木自身も、明日からはただのダンサーに戻る。憧れたのはやっぱり、「どすこい!」よりバックダンサーの方だった、と、今は思う。

だからって、相撲部屋を開いたことが無駄だったなんて、全く思わない。

三ヶ月前、相撲部屋を作りたいと感じた情熱。この三ヶ月間、筑前竜と女子力士達の優勝に燃やした情熱。
その一瞬一瞬に感じてきた情熱に、嘘はない。

なら、それでいいんじゃない?人生とは、そんな一瞬の情熱の積み重ねなのだから。

胸に刻み込まれた無数の瞬間を抱いて、また明日から、一見以前と変わりないようなありふれた日常が始まっていくのだろう。

「せぇんせえ~、早く来ないとチャンコなくなっちゃうよぉ~」

京女知美が鈴木を呼ぶ。

「あ、待って待ってー」

鈴木は慌てて居間に上がる。

でも、その日常は、前と何一つ変わっていない、なんてことはなくて、きっと花の色一つ取っても、以前よりは鮮やかに見えているはずだ。

そうやってこれからも、花一輪、日常の何気ない一場面、応対した受付嬢一人が美しく見えるよう、情熱を積み重ねていこう。

そんなことを、住職チャンコをほおばりながら思ってみた、鈴木であった。

(『Nocotta』完)
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