『Nocotta』

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【十九.棚田恋】

泣いても笑っても、優勝を決める最後の一番。

土俵に上がった棚田恋は…見るからにガチガチだ。

ガラガラ…ごっくん。

力水を飲んじゃった。

塩を撒くのも、撒いた後でちょっとなめて気合いを入れるつもりが、間違えて撒く前に口に入れてしまった。慌てて後ろを向いて塩の塊を吐き出し、力水で口をゆすぐ。

土俵上を歩くのも、右手と右足が一緒に出てしまっている。…まあ、相撲の足の送り方としては、正しいんだけど。

どうしようもなくぎこちない動作だが、無理もない。元々控えめな性格の上に、初土俵がいきなり優勝を決める大一番、しかも相手は圧倒的な強さを誇る女横綱巨豊なのだから。

この雰囲気に慣れる時間が欲しいところだが、時計は待ってくれない。容赦なく、仕切りの時は訪れる。

「待ったなし。」

行司の軍配が返る。顔面蒼白の棚田恋だが、何とか呼吸を合わせ、立ち合う。

棚田恋は、低く頭をつけ、左前まわしを取り、右手で相手の体を押して、上手を取らせない。ガチガチだった割には、随分冷静な取り口だ。

一方の女横綱は、余裕の表情。

(あまり早く決めちゃうと、お客さんも盛り上がれない。じっくり時間をかけて攻めちゃお。)

軽く揺さぶりながら、女横綱、ゆっくりと前に出ていく。棚田恋は、その前進を止められない。
そのままずるずると押され続け、棚田恋の右足が、俵にかかる。

その瞬間、足の裏に感じた俵の感触に、遠い日の記憶が呼び起こされた。

まだ幼い恋が、藁ぐつを履いて雪道を上っている。耳まで帽子をすっぽりかぶり、白い息を吐きながら、黙々と上っている

(そろそろキメるか。)

横綱が寄る。…寄れない。棚田恋は、俵に足をかけたまま、じっと耐えている。

(意外と粘るのね。でも、どれだけ耐えられるかな?)

思ったより抵抗されていることに多少の動揺を感じつつも、まだ横綱の表情には余裕がある。

俵の感触が、さらに恋の記憶を呼び起こしている。

機械化された農業では、藁は使われず捨てられてしまうことが多い。しかし、機械の入らない棚田では、藁も大事な資源として利用されていた。

藁ぶき屋根、藁ぐつ、正月のしめ飾り、納豆作り、米を入れるのもビニール袋ではなく米俵。幼なじみとケンカをして、藁人形を作ったこともあった(真似してはいけません)。

藁も大事な自然の恵み。大事な大事な、自然の恵み。

その時、恋は、相撲が古来より神事として行われてきたことの意味が、少し分かった気がした。

土で作られた土俵は、豊かな恵みをもたらす大地であり、自然そのもの。埋め込まれた俵は、自然がもたらしてくれた豊かな実り。そして、そこで相撲を取る力士は、人の代表。

「私達は自然の恵みによってこんなに立派になりました」と、人は感謝を捧げる。

つまり、土俵の上は、人と自然の関わり合いの縮図になっている。

そこまで思い至った時、恋の体に、今まで感じたことのない力が湧いてきた。それはまるで、大地の精霊が乗り移ったかのような感覚だった。

その力を感じるままに、棚田恋は、一歩、前へと踏み出す。

横綱が、下がる。初土俵の無名の新人に真正面から押し返されるなど、夢にも思っていなかった横綱の表情に、動揺がはっきりと見える。

さらに一歩、また一歩、棚田恋が前へ出る。

「Nocotta! Nocotta!」

行司のリズムが、棚田恋にさらに力を与える。

(こんな初心者に!)

土俵中央で、横綱が小手投げで横の揺さぶりをかける。しかし、農作業と山道で鍛えられた棚田恋の下半身は、ビクともしない。

さらに一歩、また一歩と前に出る。

「Nocotta! Nocotta!」

今度はぱっしょん部屋の一同も、行司に合わせて声をかける。棚田恋の心に大きな勇気が生まれる。

(だったら、前に出てきたところを引いてはたいてやる。)

横綱が引く。…引けない。棚田恋が両差しの形でまわしをガッチリとつかみ、引くことさえできない。

この時横綱は、自分が、自らの意思では全く動けなくなっていることに気付き、愕然とした。今まで圧倒的な力で対戦相手をねじ伏せてきた横綱にとっては、まさにあり得ないことが起きていた。

さらに前へ出て、土俵際。横綱も意地の抵抗を見せるが、棚田恋、寄る。
そして、横綱の体を引きつけ、吊る。米俵を担ぐことで鍛えられた驚異的な背筋力で、横綱の巨体を持ち上げている。

そしてゆっくりと、横綱を土俵外へと吊り出した。

行司の軍配が棚田恋の勝ちを示す。

館内は、棚田恋のあまりに見事な勝ちっぷりに、負けたのが横綱であることも忘れて惜しみない拍手を送っている。

本来なら屈辱的と言うべき負け方をした横綱も、悔しさよりむしろ清々しさを感じていた。すっきりした表情で土俵に一礼する。

勝った棚田恋は、まだ夢の中にいるような顔で、取組中とは別人のようなフワフワした物腰で勝ち名乗りを受ける。

土俵下で仲間達に囲まれても、まだ夢の中。

そのまま表彰式が始まった。

土俵上に女力士六人が並び、理事長が涙でぐちゃぐちゃになりながら表彰状を読み上げる。

「表彰…状…光は…いや、あなた達は…」

あまりの理事長の乱れぶりに、恥ずかしさで小田中光は赤面している。

その後、トロフィーや賞金目録が渡されたが、今度はぱっしょん部屋の女子力士一同赤面している。

鈴木が土俵下で、うっすら涙を浮かべながら、例のマゲヅラをかぶって笑顔で頷いていたからだ。

「なんでこの最高の場面でそういうことするかなぁ…」

感動のエンディングに純粋に浸りたかった玉緒虎子が嘆く。
「そのマゲヅラって変!」と一度はっきり言っておくべきだった、と、皆後悔した。

表彰式も終わり、何だかよく分からないインタビューにも上の空で答え(インタビュアーは要領を得ない回答に苦労していた)、力士達も風呂を浴び着替えを終えて、控え室でお茶にした。

しばらくはしゃいで、なぜか皆、物静かになる。
ここまで相撲やってきたのって、実は夢だったんじゃないか、そんな錯覚を一同は感じていた。

ほんの三ヶ月ほど前、鈴木が相撲部屋を作ることを思いつくまで、土俵なんて、遥か遠いファンタジーの世界でしかなかったのだから。

まるで祭の終わり、焚かれた火が燃え尽きていくような、名残惜しさと寂しさを感じていた。

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