『Nocotta』

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【十二.初場所】

初場所を目前に控えた理事長室に、経理担当者が一枚の請求書を手にやって来た。

「こんな請求書が来たのですが…一体何でしょうか?」

「ん?どれどれ…」

理事長が請求書を手にする。経理担当者が不安な面持ちで言う。

「鈴木親方のカツラ代、って一体…。しかも、幕内力士一人分の年収に相当する額って、カツラ一個に高過ぎませんか?」

それを聞いて、理事長は全てを理解した。請求の内訳も、材料費、技術料、正月返上技術料等、特に不審な点もない。
鈴木親方が本当に高級なカツラを作っちゃった、ということなのだろう。

ま、嫌がらせが成立するなら、このぐらい安いもの、と、理事長は無言で決済のハンコを押した。

初場所初日が訪れた。

鈴木親方は、幕下の取り組み時に、土俵下で審判を担当することになった。

人生初の和装に身を包み、国技館内の土俵へ向かう通路で、理事長とすれ違う。

「ぷ…親方、君ねぇ…」

理事長が吹き出す。

鈴木親方の頭には、確かにマゲのカツラがかぶせられていた。
ただし、アフロの上から。

つまり、アフロはそのまま、それをすっぽり包むように、マゲのカツラがかぶせられているのである。恐らくこれは、「史上最大のマゲ頭」と言って差し支えないであろう。
傍から見れば、ほとんど着ぐるみ状態だ。

理事長は「何だそれは!」と怒鳴りつけたい気持ちでいっぱいだったが、笑ってしまって怒鳴れない。

それに、「カツラでいいからマゲを結え」と言ったのは理事長自身だ。確かにその通り、鈴木親方がかぶっているのはマゲのカツラ。

文句を言うに言えず、理事長は、笑いをこらえながらそのまま立ち去ってしまった。

土俵下にデンと座った鈴木親方を見て、場内がざわつく。土俵下で巨大なカツラをかぶっている鈴木親方はやたらと目立ち、新たに客が入ってくるたびにそれに反応するので、場内ではずっと、ヒソヒソ・クスクス・ザワザワという雑音が収まることはなかった。

理事長の指示で、テレビカメラはなるべく鈴木親方を映さないようにし、アナウンサーも一切触れることはしない。
こんな光景、相撲協会の汚点だ、それが自分の理事長在任中に起こったなど、まったく赤っ恥もいいところ、と、理事長は胃の痛くなる思いだった。

「物言い」がついた。

各審判が土俵中央へ集まる。

「ん?何かあったのかな?…こういう時はやっぱり、自分も行くんだろうなぁ…」

鈴木も土俵中央へ。遅れていくと、一番偉い人みたいだ。

鈴木以外の審判は、先についた手が「かばい手」かどうかを審議している。

かばい手?…と鈴木は思ったが、今は審判である。知らないとは言えない。腕を組み眉にしわ寄せ、偉そうな顔を作りながら、時々うなずいてごまかす。
内容は全く理解していないから、自ら意見を述べることはない。他の審判も、鈴木に意見を求めたりはしない。

そして審議が終わって、鈴木は満足げな表情で土俵下へと戻る。審判長によって、かばい手を認め「行司軍配差し違え」とする旨のアナウンスが為される。

しばらくすると、再び物言いがついた。巨大なマゲカツラの鈴木がまたも土俵中央へ行き、何を言うこともなくまた土俵下へ満足げに戻っていく。

そんなアホくさい光景が繰り広げられる土俵に耐え切れなくなった理事長が、鈴木親方の元へ行く。

「親方、慣れない審判、大変だろう。筑前竜の調子も気になるだろうし、今日はもういいよ。」

「あ、もういいんですか?んじゃ、失礼します。」

はっきり言って素人の鈴木には、見ていても判定がどうなのかさっぱり分かりはしないのである。理事長の言葉に、さっさと別の親方と交代し、筑前竜のいる東方の支度部屋へと向かった。

その頃筑前竜は、自分の中のある不安と戦っていた。

筑前竜の粘り強さの秘密…それは、普通の人よりも柔軟で可動範囲の広い両膝にあった。不利な体勢や土俵際からでも、相手の隙を逃すことなく、いつの間にか自分に有利な形に持っていく…そんな相撲を支えていたのが、この柔軟な両膝であった。

しかし、この両膝の柔軟さは、諸刃の剣でもある。可動範囲が広いが故に、無理な方向に力が加わることも多く、長年加わり続けた無理な力は、筑前竜の両膝を蝕んでいった。

交通事故の後、番付を落として引退したのは、一つには、後援会会員が高都筑に鞍替えしていったことによる精神的なショックが原因だった。しかし、それだけではなく、消耗した両膝をかばって本来の持ち味が出せなかったことも、実は大きな要因だった。

そして今また、いったいこの両膝がどれだけ持つのか、という不安に、筑前竜は襲われていた。

そんな筑前竜のいる支度部屋へ、土俵下から引き揚げてきた鈴木親方が入ろうとした時、国技館の職員が声をかけてきた。

「あ、鈴木親方ですね。筑前竜さんに花が届いているので、渡していただけますか?」

「はいはい。」

小さな花束を受け取り、支度中の筑前竜のところへ行く。

「筑前竜、何か花が届いてるぞ。」

筑前竜は花束を受け取り、添えられた名前を見る。

小沢純。

その名前を見た瞬間、懐かしさがこみ上げる。
それは、中学の頃憧れていた、一つ年上の女性だった。
セミショートヘアが似合い、身のこなしの軽やかさが印象として残っている。

当時は、満足に話す機会もなかった。何かの折に親切にされたこともあったが、別に特別扱いしてくれてたわけじゃない。
基本的に、誰にでも優しく接する人だった。
表面的には無愛想で、困ってる人への親切な声のかけ方一つ分からない少年だった筑前竜にとって、その優しさは、眩しかった。

筑前竜自身は、中学卒業後、故郷九州を離れ上京、相撲部屋に入門して関取を目指す。 関取に昇進すると、地元には後援会が発足した。そして懐かしいその名前に、後援会名簿の中で再会する。

誰にでも優しくする人だったから、多少なりともゆかりのある自分を応援してくれたのだろう、とは思う。特別な思いがあるのではないにしても、憧れた人に応援してもらえるのは、嬉しかった。

そして天才と呼ばれ、大成を期待されながら伸び悩む。大関を目前にして交通事故に遭い、その間に高都筑が一気にスターの座にのし上がる。
多くの後援会会員が、時の人となった高都筑に鞍替えし、地元後援会名簿が親戚名簿になっていく中、血縁者以外で唯一、後援会解散まで名前を残し、応援してくれていたのが、彼女だった。

あれから三年。もう完全に忘れ去られたと思っていた。たとえ憶えていても、幕内最下位の自分の名前を見つけてもらえるとは、思っていなかった。

でも、自分の名前を見つけ、花まで贈ってくれた。

きっと、この同じ空の下、どこかで自分を見てくれている。それだけで十分だ。

迷いは消えた。

たとえ、十五日間を戦い終えて、両膝が動かなくなっても構わない。いや、十五日間持たなくてもいい。一番でも多く、自分らしい相撲を取れれば、それでいい。

そう心を決め、筑前竜はまわしを締めた。

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