『Nocotta』

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【九.筑前竜と高都筑】

ここには支度部屋も二つ用意されていて、そこで高都筑、筑前竜それぞれまわしを締める。

二人は、土俵下に待機する。

行司も呼ばれ、いよいよ土俵入りだ。それぞれ四股を踏み、塩を撒く。

中央で向き合って、蹲踞の姿勢を取る。

「待ったなし。」

それほど広くはない空間に、行司の声が響き渡る。一同息をのむ。

まずは高都筑が片手をついて構える。
そして筑前竜の両手が下につき、両者が土俵中央でぶつかり合う。

向かっていった筑前竜が頭をつける。それを高都筑が、余裕の構えで受ける。
筑前竜は右前まわしを取って隙をうかがうが、高都筑は動じない。
筑前竜の右腕をおっつけながら高都筑、前へと出る。やはり三年のブランクか、筑前竜の下半身は迫力不足で、高都筑の前進を止められない。

筑前竜が土俵際に追い詰められ、理事長は勝利を確信して笑みを浮かべる。

その瞬間、ケリをつけようと力を入れ直した高都筑の一瞬の虚をついて、筑前竜が俵を使いながら右へ回り込んだ。

高都筑は向き直って筑前竜をつかまえようとするが、筑前竜の方が速い。わずかに高都筑の体勢が崩れ、理事長の表情がこわばる。

体が開いて足が揃ってしまった高都筑の一瞬の隙を逃すことなく、筑前竜は右下手を深く差し、渾身の力を込めて投げを打った。

高都筑は完全に転がされ、土俵下へと転がり落ちる。

行司の軍配が筑前竜の勝ちを示す。

下手投げを鮮やかに決められて、土俵下で大の字になったままの高都筑は、天井の隙間から見える青空を眺めていた。

筑前竜が、ただまぐれで勝ったのではなく、勝つべくして勝ったのだということは、負けた高都筑が一番よく分かっていた。

高都筑にとって、同郷で一つ年上の天才筑前竜は、ずっと憧れだった。少しでも近づきたくて、何から何まで真似しようとした。

歩き方、土俵での作法、口癖、よく使うギャグ、チャンコの味付け、アイドルの好み…。
そして横綱にまで登りつめながら、最後までどうしても真似できなかったものがあった。

それは、筑前竜の相撲感覚だ。

たとえ不利な体勢からでも、一瞬の隙を突くタイミングと身のこなしで、いつの間にか勝っている。
そんな天性の相撲センスだけは、どうしても真似できなかった。

他人の目には、体の大きさを生かした高都筑の横綱相撲は、何の欠点もない完璧な相撲と映っただろう。
しかし、高都筑本人は、筑前竜が土俵を去った後も、その真似できない天性の感覚にずっと引け目を感じていた。

だから今日は、負けるべくして負けた、とはっきり言い切れる。
そんな今の高都筑は、何一つ悔いるものもなく、気分は、晴れやかだった。

一方、青ざめた顔で呆然と立ち尽くしているのは、理事長だ。高都筑が負けるとは夢にも思わず、ドエラい約束をしてしまったのだから。

数十秒間の間、その場には、何とも言えない微妙な沈黙の時間が流れた。

「まあ…」

理事長が、やっと声を発する。しかし、言葉が続かずまた数十秒の沈黙が続く。

「…約束は、約束だ。近日中に、正式な決定を通知する。…今日のところは、以上だ。」

それだけ言うのがやっとだった。

「そんじゃま、よろしくお願いします。」

と軽いお辞儀をして理事長に答えながら、鈴木は、土俵上で片膝をついたままの筑前竜が気になった。

「どうした、筑前竜。どこか傷めたか?」

「いえ、大丈夫、何ともありません。」

鈴木の問いに、筑前竜が少し無理のある作り笑いで答えた。

何か隠しているという察しはついたが、鈴木は、あえて問いただすようなことはしなかった。たとえ何かあったとしても、もはや、行ける所まで行くしかない道だと、分かっているから。

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