『Nocotta』

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【四.臥竜】

相撲協会からの帰り道、鈴木はちょいと洒落たバーに立ち寄った。照明を抑えた落ち着いた雰囲気の中、カウンターに座り、甘ったるいカクテルを頼む。

表情には出さないが、マスターの「この青二才が生意気に」という空気が伝わってくる。
どうやら、小汚い半人前の来るところではなかったようだ。

多少の居心地の悪さを感じつつ、さてこれからどうしよう、と、カクテルを一口含みふと右を向いて…鈴木は思わず噴き出しそうになった。

入ってきた時は暗さに目が慣れず気付かなかったが、そこには、マゲを結ってダークカラーの和装をした、体の大きな男が飲んだくれていた。

見るからに力士っぽいその男の横顔には、見覚えがあった。 頭の中の新聞記事をめくっていく。

四股名は筑前竜ちくぜんりゅう。三年ほど前、関脇にまでなり、あと一歩で大関、というところまで行っていた。
体はそれほど大きくないものの、その天性というべき相撲感覚は誰もが認めるところで、若い頃は「二十年に一人の逸材」ともてはやされたものだった。
そんな期待された筑前竜だったが、度重なるケガで伸び悩み、三十路手前でやっと、大関昇進のチャンスをつかむことができた。
しかしそんな時、不慮の交通事故に遭い、休場を余儀なくされる。

ケガそのものは、力士生命に関わるほどのものではなかったのだが、休場している間に、同郷の一つ年下の弟弟子高都筑が立て続けに金星を挙げ、一躍時の人となる。
地元後援会の会員も次々と高都筑に鞍替えしていき、そのことに大きなショックを受けた筑前竜は、失意の中番付を落とし、人知れず土俵から消えていった。

引退して飲んだくれている、と記事にはあったが、未だにマゲを結っているということは、土俵に未練があるのだろうか。

鈴木は、筑前竜の隣に座った。…正確には、隣に座ろうとしたが、体が大きいので隣の隣に座った。

「マスター、これは俺のおごりで。」

マスターが怪訝そうな顔をする。

「いいの?高いよ。」

「…高いの?」

「かなり高いよ。しかもボトルだし。」

「…ごめん、今の俺の発言なしで。」

これはカッコ悪いな。さすがに。
筑前竜も「何だこいつ?」って顔してる。
ツカミに失敗した以上、本題をズドンと行くしかないだろう。

「一週間後、高都筑を倒さないかい?」

一瞬、瞳の奥が光ったのを、鈴木は見逃さなかった。
しかし、すぐにまた、どんよりした飲んだくれの目に戻ってしまった。

「何だよそれ…無理だよ…向こうは横綱、こっちは三年前に忘れられた力士…相撲はもう捨てたよ…」

「でも、あんたは二十年に一人の逸材だろ?チャンスはあるよ。」

「まぐれで勝てるほど相撲は甘くないよ…」

「まぐれじゃない、あんたの天性の才能で勝つんだ!」

「天性…何だよ、天性の才能って…。結局一度も優勝してないんだから、それが俺の才能なんだよ…」

一向にテンションが上がってこない。

「それは、運がなかっただけだろ。」

「運も実力のうち…。大体、今さらコツコツ、一回り以上年下の連中と下の方からやり直せって言うのかい?今さら…」

ここで鈴木は、一つの手応えをつかんだ。

筑前竜は、もう一花咲かせたがっている。幕下ではなく幕内で、ほんの一瞬であっても、咲かせたがっている。

鈴木はカクテルを一口含み、テンションをリセットして今日の話を始めた。

「今日、相撲協会理事長のところに行ってきてね。んで、相撲部屋を作らせてくれ、って話をしてきた。」

「年寄株持ってんの?」

「いや、相撲を取ったことすらないね。」

筑前竜が口元にニヤリと笑みを浮かべる。少し興味を持ってきたようだ。

「それじゃあ、相撲部屋なんて作れないじゃん。しかもあんたはただの素人だ。」

「そこだよ。で、俺は言ってやった。『素人にできないって誰が検証したんだ』、『常識という壁の裏にこそおいしい果実が実ってるんだ!』って。」

「ハハッ、物は言いようだな。」

だいぶ話に乗ってきた。あと一息だ。

「そしたら理事長、『なら君が証明して見ろ』だって。こっちの思うツボ。しかも引くに引けないでやんの。」

「ハハハッ、あのオヤジ頑固だからな~。」

「んで、出してきた条件が、『一週間後、一発勝負で高都筑を倒せ』」

それを聞いて、筑前竜の顔が真顔になる。

「しかし、万が一倒せたとしても、また一からやり直すのはなぁ…」

さっきまで「無理」と言っていた筑前竜が、「万が一」にまで前進した。確実に、気持ちは前向きになっている。

「それに、勝って得られるのは、相撲部屋を作る権利だけじゃない。」

「と言うと?」

「高都筑を倒せば…初場所、いきなり、幕内に入れる。」

それを聞いて、アルコールで赤くなっている筑前竜の顔が、興奮でさらに上気する。

手の届かない目標ばかりの時、人はやる気を失い、絶望する。
しかし、はっきりと捕えられる目標が見えたとき、その目標は、人の心に生きる勇気を与える。

もう一押しだ。

「幕内に入れば、優勝のチャンスだってある。」

筑前竜の目が、飲んだくれの目から、戦う男の目に変わった。
答えを確信しながら、鈴木は最後に静かに問うた。

「高都筑を、倒すかい?」

筑前竜は、ゆっくり呼吸を整え、答える。

「倒そう…これが、最後のチャンスだ。」

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